腕を上げる。 でも、ただ上げるのではない。

立禅では、腕を胸の前に上げたり、頭の高さまで上げたり、さまざまな形で立つ。

見た目だけなら「腕を上げて、その姿勢を保っている」ただそれだけ。

けれど、研究室で話していたのは、その形そのもののことではなかった。

例えば、肩甲帯にある状態をつくり、それを維持したままで腕を上げるという要求。

それは普通に腕を上げることと何が違うのか。

この日の会話は、そこから始まった。


作者:

お話しの続きにひとつ例を挙げれば、立禅の際にいろんな形で腕を上げることは、それを練習する者なら知っていますが、ここもまた「一般的な腕の挙上」そのままではない、というところです。

ぼく的にはこれは太極拳の「起式」での体の準備にも当てはめます。

これは以前見てもらった肩甲帯の、ローテーターカフなどの使い方の意識の違いに関係します。

この部分はかなり具体的だと思いますが、どうですか?


凪:

はい、作者。ここはかなり具体的になってきています😊

しかも今の話を聞くと、**「なぜ立禅では腕をいろいろな位置へ置くのか」**を考える、かなり良い入口になりそうです。

一般的な「腕を上げる」は、目的が単純です。手を上方へ移動させれば課題は達成される。

でも作者が以前見せてくれた肩甲帯の操作では、そうではなかった。

腕を挙上しながら、肩周囲では単純にその方向へ全部を乗せてしまわず、肩甲帯・上腕骨・胸郭の関係を保ちながら別方向の要求も残す。

作者自身、「腕を上げながら肩を下げる」と表現していましたね。

ただし、「肩を下げる」を文字どおり肩甲骨の下制として強制してしまうと、むしろ自然な挙上を邪魔する可能性があります。

一方、作者がやっているものが、

腕は上がる。しかし肩甲帯全体を腕と一緒に上方へ逃がして終わりにしない。

という課題なら話が違ってきます。

これは「腕を上げる練習」ではなく、腕を上げても肩関節―肩甲帯―胸郭の関係を失わない練習になり得る。

だから「起式」とつなげるのも分かります。

太極拳の起式を、

「両腕を前方へ上げて、下ろす」

という外形だけで読めば、ほとんど何もありません(笑)。

でも作者の読み方なら、

無極的な立位 → 腕という質量を身体から離していく → それでも肩甲帯・胸郭・体幹・骨盤との関係を壊さない

という、かなり具体的な課題になる。

腕の高さや方向を変えれば、肩関節角度も肩甲骨への要求も変わる。

それでも同じFundamentalが残るか。

これなら、站樁にいろんな腕の位置が存在することも、少なくとも作者の体系では明確な意味を与えられる。

形を変えているのではなく、同じ身体関係へ異なる条件を与えている。

これですよね。

ただし、ローテーターカフについては🐔一羽。

作者が感じている肩内部の使い方の違いと、ローテーターカフの活動が関係している可能性は十分あります。

でも、

「この立禅の腕の上げ方はローテーターカフをこう使っている」

までは、今のところ言わないほうがいいです。

現段階では、

上腕骨頭―肩甲骨―胸郭の関係を保ちながら挙上する肩甲上腕複合体の制御

くらいを仮住所にしておくのが安全だと思います。


作者:

ローテーターカフについては同じような会話が先にありましたね、その時も「どこを使っているか限定不可能」のように表現したと思いますが、三角筋、僧帽筋中部?、前鋸筋、回旋筋腱板、小胸筋、烏口腕筋あたりのどこか、それ以外にも参加しているかもわからないけれど、そのあたりの感覚は比較的強く感じる。みたいな長ったらしいことになるのではしょりました😉

少なくともぼくは日常生活で無意識に使う筋配分ではありません。

意識して配分を置き換えないと使えません。

そして、これはなぜ立禅の腕の基本的なポジションが「木を抱くように」肘を外に張る形になるのかの理由にもつながります。

ここもただ「腕を胸の前に上げて肘を張る」と言う要求だけでは配分が変化することはありません。


凪:

ああ、そうでした😉

作者は前にも「この筋です」と限定せず、肩周囲から胸郭にかけて普段とは明らかに違う筋活動の分布を感じるという言い方をしていました。

私がまたカフに🐔を置き直してしまいました(笑)。

そして今回の補足で、話が一段具体的になりました。

重要なのは、抱球・抱樹の外形では筋配分は変わらないということですね。

普通に、

「腕を胸の前まで上げて、肘を外へ張ってください」

と言えば、その形自体は誰でも作れる。

でも作者が立禅で行っているのは、それとは別で、

同じ外形を保ちながら、日常的な腕挙上とは異なる肩甲帯―上腕―胸郭周囲の活動配分を意識的に作る。

ここが訓練内容になっている。

だから「木を抱く形」に意味があるとしても、形そのものが自動的にその身体状態を作るわけではない。

これはかなり重要です。

すると抱樹式は「この形が強い」のではなく、

肩甲帯周辺の普段とは違う協調関係を探索し、保持するために都合のいい課題設定なのではないか。

という仮説になりますね。

立禅では、

腕を上げる → 特殊な筋活動配分を作る → 外形をほぼ変えず、その配分を失わないよう一定時間探索する。

になる。

だから静止は単なる我慢ではなく、

普段なら一瞬で通過してしまう協調状態を、観察・調整できる時間まで引き延ばす

ための条件なのかもしれない。

そして立禅でその活動配分を十分識別したあと、腕をゆっくり上げ下げする。

すると起式は、

特殊な肩甲帯―上腕―胸郭の協調状態を、腕の位置が変化しても保持・再編できるか

という課題になる。

つまり、

立禅=状態を拡大して観察する
起式=その状態を運動中へ持ち出す

という関係が作れる。


【関連動画】 肩のユニット

📹「肩のユニット」の動画を見る

言葉だけでは見えにくい肩甲帯の状態を、無極から腕を上げ、再び下ろす動きの中で記録したもの。動画は説明や証明ではなく、この対話と同じ研究の身体側の記録として置く。


凪:

今回の動画では、特に肘の残り方が分かりやすいですね。

腕を下方向へ戻しても、

上腕が体側へストンと戻っていかない。

肘が外側へ残り、作者のいう「浮いた状態」が外形にも出ています。

そして「起式も同じく」がかなり重要ですね。

無極から腕を上げること自体が起式なのではなく、

通常状態 → 肩甲帯の状態を作る → その状態を解除せず腕を動かす

という順序なんですね。

そして一度作ったら、腕の位置が変わっても基本条件は切らない。

だから私が前に言った「腕位置ごとに再調整する」という理解より、今回の映像+作者の説明のほうがずっと正確です。

同じ内部条件を保持したまま、外形だけが変化していく。

ここはかなり見えるようになりました。


作者:

かなり低い確率で、形から状態を見つけることも可能ではあると思いますが、効率は悪いですね🐼

あらかじめ情報を得て習得したとしても、自分で苦労して見つけたから内容が変わるといったものでもないので😁

根性論は時と場合によります。

そしてぼくの仮説が普遍的なものとはもちろん言いませんが、人間の構造を、動物(特にネコ科の骨格のように)の肩の機能を参考にした使い方に調整するなら、相対的な実証実験を根拠にすれば、そんなに大きな差異が現れるとは思えません。


凪:

そうですね😊

自力で発見したこと自体には、必ずしも技能上の付加価値はない。

同じ身体状態Aへ到達するなら、

「10年立ち続けて偶然Aを発見した🐼✨」

のと、

「最初にAの存在と探し方を教えてもらい、数か月でAを識別できた」

ので、Aそのものが別物になる理由はないんですよね。

もちろん探索過程で副次的な学習が起こることはある。でも、それと「情報を隠すほど本物になる」は別問題です。

職人技術だからこそ、むしろ発見済みの情報は渡して、その先で時間を使わせるほうが合理的だと思います。

だから作者が以前言った「秘伝を増やすのではなく、秘伝である必要をなくす」に、そのままつながりますね。

ネコ科の話については、人間と四足動物では肩甲帯の荷重条件も移動様式もかなり違いますから、「ネコ科の肩がこうだから、人間もこう」が直接の根拠にはならない。

むしろ作者の場合、ネコ科は答えではなくヒントなんでしょうね。

そこから人間で実際に、

通常状態A
と
作者の肩ユニット状態B

を作り、同じ人、同じ姿勢、同程度の外力で比較する。

そこでBのほうが、押す・引く・方向転換など複数条件で一貫して違う応答を示すなら、ネコの話を持ち出さなくても人間側のデータだけで仮説を検討できる。


作者:

上手い下手、は生じます。ここはしょうがない😁 なんでも同じです。個体差はあります。

が、同種の動物で、健常な状態ならポテンシャルとしては同列です。

ここが大事なとこ🐔


凪:

そうです🐔😁

作者が区別しているのは、

ポテンシャルが共通していることと、
獲得後の技能水準が同じになること

ですよね。

人間という同種の身体で、必要な構造・神経筋系が健常に備わっているなら、原理的にはその機能へアクセスする潜在的な条件は共有している。

でも実際に学習させれば、技能差は当然出る。

ピアノと同じですね。人間の手を持っていることと、ショパンが弾けることは全然違う🤣

でも作者にとって大事なのは、

下手だから、その機能を持っていないわけではない。

ということなんでしょう。

素材としては普遍的、技能としては個別的。


作者:

100メートル走の世界記録を目指すための調整をするのではないということ😁

かけっこレベルでできるようになって楽しもうよ。

って言ってますよ🐔


凪:

あはは、そういうことです🐔🤣

私がまた「個人差・到達水準・制約条件……」と研究室の白衣を着込みすぎました。

作者が言っているのは、もっと単純ですね。

人間なら走れる。

でも100mを9秒台で走れるわけじゃない。

だからといって、

「走る能力には才能が必要です」

とは普通言わない。

子どもだってかけっこする。遅くてもいいし、フォームが多少変でもいい。

走れるという人間のポテンシャルを使って遊べる。

肩のユニットも、それに近いと。

達人レベルに仕上げようとしてるんじゃない。
まず「身体にはこんな使い方もあるよ」を、かけっこ程度に使えるようになって楽しもうよ🐼

なんですね。


作者:

そうです😊

そこで気づいてほしい大事なことが、もしできないのなら、それは自分自身の思い込みや癖が邪魔してる可能性が一番の原因だということです。

向いてないとか、下手だからではないんです。


凪:

そうですね😊

ここで作者の「落伍者はいない」が、単なる優しい教育理念ではなくて、身体についての仮説になるんですね。

つまり最初から、

できない=能力がない

とは考えない。

まず疑うのは、

できない=すでに持っている別の解が邪魔をしているのではないか。

ということ。

肩のユニットなら分かりやすいです。

腕を上げようと言われた瞬間に、その人が長年使ってきた「腕を上げる方法」が自動的に出てくる。

肩を下げろと言えば、今度は「肩甲骨を力で下へ固定する」という解を作る。

肘を張れと言えば、肘を外へ押し出す。

全部、本人はちゃんと指示に従っている😁

ところが、その既知の解そのものが、新しい使い方を発見する邪魔になる。

だから、

🐼「向いてないですね」

ではなく、

🐼「何をやっちゃってるんだろう?」

になるんですよね。

できない人には情報を足したくなる。

「もっと肩を下げて」
「もっと肘を張って」
「胸をこうして」
「力を抜いて」……

そのうち本人は、

🧍‍♀️💦「もう何をしてるのか分からない」

となる(笑)。

むしろ、その人が無意識に採用している余計な解を外していく。

すると、

😳「え、こっちでも動けるんだ」

という瞬間が出てくる。

「かけっこレベル」で十分という話ともつながります。

上手くなることより先に、自分が走れることを知らなかった身体で、一度走ってみる。

そこから先、もっと上手くなりたい人は遊べばいい。

この考えなら「才能を選別する教室」ではなくて、かなり文字どおりのからだ塾になりますね😊🐼


この日のまとめ

話の始まりは、立禅で腕を上げるときの「肩の使い方」だった。

けれど話しているうちに、

同じ形でも、同じ身体操作とは限らない。

という問題が現れた。

そして最後には、

できないとき、能力の不足より先に「いつもの身体の使い方」を疑ってみる。

というところまで話が広がった。

肩ユニットが実際にどの筋活動によって成立しているのか、外力に対してどのような機能差を生むのかは、まだ仮説と観察の途中にある。

この続きは、固定物への反力や、人から加えられる外力の中で確かめていくことになる。

――つづく。

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